Go to oversea!!

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自分の才能を超えていけ!!

自分で自分を超えるために、とことん頑張る。息抜きも全て。

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<ブログ紹介>才能を超えるとは??

才能を超える。

これは、大変に難しいことであります。

 

そんなこと、不可能かもしれません。

いや、不可能です。

人間は、変わりません。変わるのは、環境です。

 

「タイトルと矛盾してますやん」

 

はい。そうです。

矛盾は、二元論の世界で生まれます。

YESとNOを決めてしまうから。

 

僕は、こうした二元論を超えた生き方をしたい。

誰にも定義されない、誰にも評価されない、誰にも迷惑にならないし、誰の役にも立たない。そんな生き方に意味あるのか?って思われるかもっしれません。

 

しかし、生きることにそもそも意味などあるのでしょうか。

意味を見出すことは、確かに大事です。

でもそれは、他人の軸で生きる道を探してしまう罠でもあるのです。

 

僕は、とことん自分の感情に素直になりたい。

そして、どうせ生きるのなら、自分の軸で生きていきたい。

 

そのために、しっかり振り返ることが大事だ。

セルフマネジメントをしていくのだ。

その最大のツールがブログである。

 

正直言って、みなさんにとって有益な情報を書けることは少ないと思う。

でも、僕なりのふりかえりが、みなさんの何かのお役に立てれば最高です。

 

世界に希望の光を

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人生初の北アルプスに挑戦

山をめぐると、自然のスケールに常に圧倒される。

これまで、地上で見てきた人工物の数々があまりにもしょぼく感じる。

人の手ではどうしても作れない景色の数々がそこにある。

 

それに触れたとき、この世に生まれたことをとてもありがたく感じる。

 

今回は薬師岳と、黒部五郎岳に。

薬師岳は、日数さえかければ、老若男女様々な人が挑戦できる北アルプスの山だ。

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アラビアンな薬師岳山頂付近。

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景色もさることながら、空はコバルトブルーである。

多くの登山者がブログや写真をUPしている。

今更自分が、ガイド並みのブログを書いたところでなんの意味もない。

だから僕は、山の写真を撮っても、ガイド的なブログは書かないことにした。

 

その変わり、山を登りながら考えたことをじっくり書いていきたいとも思う。

今回、山登りで考えたテーマは「自分の本当にしたいこと」である。

「やりたい仕事」ではない。

 

社会の制約を無視したらやりたいことは何??

 

コーチングの勉強会でも、こんな質問があったな。

 

僕は人の成長を見るのが好きだ。子どもも大人も関係ない。

あとは、人前で話すのが好きだし、人が熱く議論する場を作るのが好き。

いつも、そんな自分のニーズに合った仕事がないかを探してきた。

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急峻な山を越えるためにはピークまでの遠回りが大切である

そもそも、この世に自分のニーズに合った仕事などあるわけがない。

そんな素晴らしい近道がこの世に存在すると思ったら大間違いだ。

甘すぎる。

 

だったら、やっぱり作ればいいんだよな。と思う。

自分のニーズにあった仕事を作れたら、嫌なことなんて我慢できるはず。

 

転職を考えるきっかけになったのはばあちゃんの遺言。

 

神様が僕に与えた使命だ。

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「生きていても楽しいことなんてない。」ばあちゃんは最後にそうつぶやいた。

 

日本中に、孤独に耐えることのできない人間が多々いる。

施設に入ることを拒む人もいる。

器用に生きられる人ばかりではないし、気を遣うあまりに1人を選ぶ人だっている。

 

孤独死なんて怖いに決まってる。

でも、やっぱり他人に迷惑をかけることほど怖いことはない。

 

これだけ世の中が発達したのに、人間の幸福度は全然高まらないのはなぜだろう。

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自然に生きるものたちに、本来幸福なんてありやしない

そもそも、生きているうえで、なぜ幸せを探してしまうのだろう。

どうして、今隣にいる女性より、他の女性を見てしまうのだろう。

 

幸福って、そもそも比較の副産物でしかない。

ありのままに生きる自然界に、そんな概念は必要ないのだ。

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君は幸福かい?

僕がこの世の、孤独を抱える人たちにできることはなんだろう。

 

他者と比べなくてもいいよって話したい

幸せなんて放っとけばいいって応援したい

生きる楽しさをもう一度感じてもらえるように行動したい

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希望の光を、もう一度いろいろな人に届けたい

 

僕みたいなケチでしょうもない人間でも、誰かの役に立ちたいのである。

 

自分という人間を信じられるか

どんな過去があっても、今を一生懸命生きれば、運命は変えられる。

過去をどれだけひきずっても、たらればをいくら考えても、現実は何も変わらない。

 

強いとか、弱いとか、そんな線に惑わされてはいけない。

過去を素晴らしいものに変える。

それは、誰にだってできることだ。

 

才能なんて関係なく、誰にだってできることだ。

 

今を生きろ。

感情的にもなれやしない

時々、自分が感情的になれないことにイライラする。

夜になると、寝る前に頭の中でそういうことを思いだす。

なぜあの時怒れなかったのだろう。

なぜあんな風に言われても苦笑いで済ましたんだろう。

 

そして、そんな過去の自分を何年たっても忘れられず、イライラしてしまう。

 

こういう反芻思考をしてしまう人は、鬱になる傾向が高いらしい。

確かに、過去なんて、どれだけ「あの時、あの時」と思っても変わらないのだから。

じゃあ、そのような過去とうまく正対する方法はないのか?というと、そんなことはない。

 

もし、同じようなことがあれば、その時この苦い経験を生かして、その瞬間に全てを出し切るのである。頭の中で何度も何度も練習して、ほんの少しでも前回より後悔しないように行動すればいい。

 

そうすれば、あの時の経験が「意味のあるものだった」と思えるようになって、その過去の思い出に本気で向き合うことができる。

 

 

30代を過ぎても、なかなか自分をコントロールできなくて、こうして悩んでしまうことが多い。でも、悩んでも前に進まないことはわかっているから、学生時代よりは本当に前向きになったと思う。昔は、沼の底の底くらいまで沈んでいたもの。今は「悩んでも意味なし!」と、表面上だけでも切り替えられるようになったから。

 

歳をとるのも、悪くないのかもしれないな。

感情的になるのに、時間がかかるからこそ、他人の「怒れない」という心境も理解できるような気がする。

出会いは決められているもの?

さっきの文章打って思い出したことがあるんですがね。

僕、旅をするときにいつも思うことがあるんです。

 

日本にしろ、外国にしろ、まあ、よほどの探検家じゃない限り、未踏の地はたくさんあると思うんですよ。

 

で、僕はそういう未開の地を無意味に歩くことが好きなんです。

それはなぜかというと、とある二つのことに思いをはせるからなんです。

 

< 出会った人たちへ >

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君たちは「今すれ違う奇跡」なんて、一度も思ったことないのかもしれないね。

これだけの未開の地、未だ出会わない69億9000万人くらいの人たちがいる。

僕は旅が好きで、33歳にもなったから結構な人と会ったり、すれ違うだけでも結構な人とすれ違ったと思うけど、それでもはっきり会話した人なんて、絶対に100万人も行ってないと思う…

 

そう考えれば、今ある出会いの全てが本当にいとおしいもののように思う。

 

実は、観光地の人込みは好きじゃないけど、駅の人込みとがは結構好き。

なんというか「すれ違うだけでこの人とは二度と会わないんだろうな~」って自然と考えられるから。

 

そう思うと、とっても、とっても出会いが愛おしいと感じるのです。

だから、僕は旅先で観光地を巡るよりも、無意味な徘徊や、ランニングが好きなんです。

 

ラオスのラーメンやでやさしくしてくれたおばちゃんなんて絶対会わんやろうな。

 

そしてその逆にこうも思います。

 

<まだあっていない人たちへ>

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まだ未踏の地は腐るほどある。

まだ行ったことない町やを見るといつもこう思います。

「ここにはどんな人が住んでいるんだろう」

「そして、僕はここの人たちに出会えるのだろうか(出会いたい)」

 

県内でも、町内でも、まだ出会ってない人はたくさんいます。

1学年にコンスタントに3クラスあったとしたら、学年約100人。

その学校を出た人だけでも10年で約1000人になる。

 

しかし、そんな人たちでさえ全てに出会っていない。

 

ましてや市外、県外、国外、なんて…

 

一体世界には、どんな人が他にいるのだろう。

そう考えると、車窓から見える景色は最高に楽しい。

 

僕が漁港の近くに生まれたら、彼らのように網を引っ張って生計を立てていたのかな。

山で生まれたら、不便な生活に嫌気がさしていたのかな。

僕がフィリピンの貧しい家庭で生まれたら、物乞いしてたのかな。

 

そこに生活した気持ちになりながら、世界を眺める。

でも、やっぱり眺めるだけじゃなんにもわからないから、そこに住む人たちに合って、直接聞きたい、見たい、知りたい、そこに住みたいなあって思うわけ。

 

まあとにかく。

無駄な一瞬なんて、これっぽっちもないよね。この世には。

 

僕が言いたいのはたったそれだけのことです。

 

皆さんはどう思いますか??

 

出会いって決められたものなんでしょうか。どうなんでしょうね。

人は常に何かに怯えて生きるものなのか

僕は、職場では厄介者扱いされることが多い。

自分で言うのもこっぱずかしいが、反対に「カリスマ」と呼んでいただけることもある。

 

しかし、どちらにせよ、僕は他者の評価ってまともなものがないよなって思ってしまう。

 

周りの人にはあまり言ったことがないが、僕は正直言って、毎日何かに怯えて生きている。必ず頭の中にふと不安要素が浮かび上がり、刹那的に僕を苦しめてくることがある。一般的に、人間はそんなものなのだろうか。

 

例えば…

 

やっぱり職業上、子どもたちに嫌われるのが怖い。

もちろん保護者、つまり親に嫌われるのが怖い。

そして、実は同僚も怖い。一緒にソフトしているチームメートも。

嫌われてるだろうなって考えると、とてつもなく怖く感じる瞬間がある。

 

安心できるのは家族だけw

 

僕は正直、他者よりも自分を大切にしていると思う。全然謙虚じゃない。だから、みんなが僕と学年を組むことを嫌がる。主張が強いと言う。でも、本当にそうだろうか。押し殺し合うコミュニケーションは僕はあまりいいとは思えない。お互いに、自分の言いたいことを言えたらいいって思う。

 

が、僕がキツイ人間であることには理由がある。

それは、やっぱり怖いことがたくさんあるからだ。

怯えているから強く出てしまうのかもしれない。

 

 

それにしても、コミュニケーションがうまくいかないと感じるようになったのは、何歳くらいだろう。中学校時代が一番記憶にある。女の子に告白できないもどかしさ、他人と合わせないとと思って必死に話に入り込もうとする焦燥感。僕はなんとなく成長が遅くて、あの頃初めてメタ認知するようになり、俺って駄目だなあとか感じ始めたと思う(昔から自分が大好きなため遅かったのかもw)

 

ブログは集客を全く見込んでないし、FacebookTwitterもアカウントを爆破したので、好きなことを書ける唯一の場だから、本当に素直に正直に書く。

 

例えば、若い子が苦手だったりする。

若い子で集まったり、なんかイケイケな人とかにうまく話せなかったりする。

イケイケな人は特に、警戒してしまう。

 

他者から見ると、そんな風に見えないなんて言われるけど、僕はそういう人間なのだ。理由はわかればいいが、正直言ってわからない。

 

でも、気が弱いんだろう。本来。

 

気が強い?気が弱い??

 

はて?

 

気が強い、弱いって、そもそもどこから来るんだろうね。

何を線にして強いとか、弱いとか決めているんだろう。

自分自身も使った「イケイケな人」って、どこからどこまでの人のことを言うんだろうね。

 

人が何かに怯えるのは、こうした無数の線を想像してしまうからだろう。

サピエンス全史にあったが、人は何かを信じる力が長けていたから発展していったと。

つまり、目に見えないものを信じてしまうのだ。

 

それが人に備わった力。

良くも悪くも。

 

殺される恐怖なんて、人間はほとんど味わわない。

目に見える恐怖を味わうことはめったにない。

しかし、なぜか人にどう思われるのかという恐怖は毎日のように感じる。

 

サバンナの動物からしたらかくもバカバカしいことに怯えているのである。

 

ただ、これが私たち人間なのだ。

何かに怯えることは、何かを強く信じていることの裏返しである。

 

みんなに嫌われることも、イケイケの人間も怖い。

かといってひとりぼっちも怖い。

 

しかし、それでいいのだ。

僕が様々な事柄に、恐怖を感じ、その恐怖に打ち勝つために生きているのなら、それはそれでいいじゃないか。人間らしいということだ。怯える人は信じる気持ちが強い人。それだけ、人間としての高い能力を備えているととらえてもいい!!

 

思いっきり怯えて、思いっきり虚勢を張る。

 

たぶん、僕にはそれが精一杯の生き方だ。

僕なりに、毎日一生懸命生きているんだもん。

原因なんてどうでもいいから、怯えながらでも頑張っている自分をほめようではないか。

あこがれの鳥海山へ

子どもの頃から、青森の家に行くたびに見ていた東北の山々があります。

 

鳥海山岩木山岩手山磐梯山安達太良山

 

今まで多くの山々を見てきたのですが、祖母の家は田舎でとても遠く、山に寄り道するようなことは一切ありませんでした。

 

30代を過ぎ、登山に目覚め、地元の白山を登頂したことで、東北の山々への挑戦が現実味を帯びてきました。

 

この夏、6月ごろには地図を購入し、8月後半、いよいよ鳥海山へ。

なぜ鳥海山にしたかと言うと、この山々の中で一番見た目が好きだったからです。

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美しくてカッコいい。それがこの鳥海山だ。

朝4時半。

吹浦の登山口から山へ入っていきました。

いつ振り返っても、海が見える素晴らしいルートです。

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海にうっとり。

あまりにも美しい景色と、登りやすい道でいつの間にか一気に中腹へ。

景色を見にパッと振り返ると、何か後ろからついてくる…

 

その生き物は一気に足元まで来て、ウロウロしだしました(笑)

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足元になぜかオコジョ。

なんと、オコジョです。

人慣れしているのか?そういうものなのか?僕がそういう人間なのか(笑)

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御浜小屋前は最高の景色。

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今回は、とにかく心ゆくまでのんびり登山しました。

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素晴らしい景色に圧倒される。

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相棒のミゥオックで登頂。

難所は終盤の岩が続くところくらいで、本当にスムーズに登れる素晴らしい山でした。

 

実は、前日まで鳥海山まで行くことを少しためらっていました。

 

実家からの距離が遠く、移動だけでも体力を使うため、山に登るのがしんどかったからです。日が迫るにつれて、距離を考えると「別の山にしようかな」と思うこともありました。

 

しかし、僕はいつもそうやってなんでも先延ばしにして、結局後々それをやっているということがたくさんあります。

ですから、最近のテーマは

 

「一度決めたことをやる!!」

 

なんです。

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眺望も最高です

そして、思いました。

 

やっぱり、一度思い立ったことはやるべきです。

 

あれも、これもと選択肢を考えて比べると、結局何が良いのかわらなくなります。

 

いつも、僕はその選択のマジックにかかってしまいます。

いいものを買っても、もっと何かあったのかな?とか、

いい出会いがあっても、本当にこの人でいいのかな?とか…

 

こういう気づきには、いつも旅で出会えます。

 

旅は、僕をいつも一回り大きくしてくれます。

 

今は、運動会のために、いろいろ考えていますが、2点、3点して、やっぱり元のアイディアに戻りました(笑)

 

そんなもんです。

 

30代を過ぎて、ようやく自分らしい生き方ができるようになってきました。

死ぬくらいに勝負したらいいじゃないか in ラオス

僕は教員なので、俗にいう安定した職業であります。

はい。確かに、給与面では安定しているでしょう。

基本的にどんだけ仕事がうまくいっていなくても、やめる人はいません。

 

いや、いないというより、辞められないんですよね。

安定を手放すということはとてもしんどいことだから。

 

僕には大好きなおばあちゃんがいました。

先月亡くなったのですが、最後まで一人暮らしを続けるとても強いばあちゃん。

でも、そのばあちゃんが死ぬ前に「もう生きがいがない」とつぶやいていました。

 

僕はそんなばあちゃんに、何の声もかけられず、帰るしかない状況に…

 

ばあちゃんは、一人で強くいきました。

ガスも出ないところで、真冬の東北の凍るような水でお米をたいたりしていました。

洗濯機もなく、お風呂もない。

 

僕はそんな状況になにもできませんでした。

でも、そういう老人の方は、日本にも世界にもたくさんいると思う。

ばあちゃんの最後の言葉が突き刺さる…

 

今の仕事は大好きです。

子どもと会うのが楽しみだし、真剣に向き合えるし、本当に合っていると思う。

 

でも、今自分の心の中に思い続けていることがある。

伊吹山で感じたあの気持ち。

感情があんなに動いたのに、それを無視することなんてできない。

 

結局、何か新しいことをしようとすれば、危険はつきものだ。

道は一つじゃないし、僕には僕にしか理解できない感性がある。

それは、他者がどうこう言うものではない。むしろ自分で決めないといけないこと。

 

海外旅行に来て、僕が身につけたい力は自分自身が強く、たくましくなることだ。

だから、素敵な観光地を巡りたいわけでもないし、豪遊してワイワイしたいわけでもない。

 

電波や、情報に頼らずに、自分の目で見て、聞いたものを信じ、一生懸命生き抜くことが大切だ。日本でクセみたいにスマホを触ってしまう僕でも、毎日が、情報に頼らない選択の連続。

 

ラオスの間中、結局湧き上がってくるかなあと思っていた運動会への熱もわかず。

でも、国内では結局ないがしろにしてきた、自分の心との対談はかなりできた。

ラオスは何もない国なので、余計に自分自身にしっかり向き合えたと思う。

 

前回もそうだったけど、全く観光しないというスタイルはみんなが無意味と思うかもしれない。

 

僕は英語をまともに話せないし、実際話しかけるのがとても怖い。

だから、ビビりまくりで行動の効率もめちゃくちゃ悪い。

うん。あまりにも悪すぎる(笑)

 

お店を決めるのに何分もかかってしまう。

でも、それが僕なんだ。

いったり来たり、迷って考えて。

 

いつもそうやって生きてきた。クソ不器用だからこそ今の自分がある。

だったら、これからもクソ不器用で、その自分を全力で出していくしかない。

効率よくなんて無理。

 

あと、あまりにも天邪鬼なので、観光がそれほど好きじゃない。

そんな時間と、お金をかけるのであったら、その土地特有のお店や、無料で味わえる空気感、人の様子を見ることなどに時間やお金をかけたい。

大きな目的とか、そんなこと達成しようとすると、なんか旅が窮屈になって好きじゃない(笑)

 

こういうややこしいのが、僕なのだ。

 

運動会への考えがどうして沸いてこないかというと、実は何を隠そう、運動会にやる気が出ないからだ。なぜ無理やり全員を走らせて順位を決めるのか。なぜ、子どもたちの意見を全く聞かずに、決まった先生が一人で表現運動を作り上げるのか。って考えていたら、なんかだんだんバカバカしくなってきた。

 

前からそういうモードにすぐなるのだけど、今年はどういうわけかそのモードが長い。長すぎるw

旅行中に終わるかなあと思っていたのだけれど…

むしろ、頭の中からこのことを本気で忘れない限り、降ってくることはないだろうなあ。

 

明日はラオス最後の日。

まあ、結局何もしないだろう。

でも、それでいいのだ。

 

きっと、そんな中だからこそ、頭に何かが降ってくることがある。

 

それを、ただゆるりと待とうではないか。

(ブログに書いてる時点でゆるりとできていないのだけれど…)

 

今から、メコン川でも眺めに行って、適当にご飯食べて来ようと思います。

ゆるりと行こうではないか。

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ゆるりと生きましょう。